2008年 09月 12日
少年愛の美学(1) |
男は男に成るまでの間に、この世のものとは思われぬ玄妙幽艶な一時期がある。これを美しいと見るのは極めて自然なことであり、別に珍しいものではないと私は思っている・・・白洲正子「両性具有の美」より
(興福寺 阿修羅像写真左)
日本の過去の男色文化や男色の歴史については数多くの研究がなされており、私ごときシロウトが口を挟むのはおこがましいのですが、世界男色帯と銘打ったからには、世界に冠たる男色大国ニッポンを素通りするわけにはいきません。
ということで、過去の日本の男色の歴史を簡単に振り返り、日本の男色文化の特徴を短くまとめてみたいと思います。
● 僧侶と男色
日本に最初に男色の習慣をもたらしたのは真言宗の開祖、弘法大師こと空海(835-921)であるといわれています。
彼が当時、先進国だった留学先の唐から真言密教とともに男色の習慣を日本に持ち帰ったというのです。
その真偽はともかくとして、日本で最初に制度的な男色の慣習が確立したのは仏教寺院であったことは間違いないようです。
仏教では女性は穢れた存在であるとみなされ、僧侶が女性と性的な関係を持つことは女犯の罪として固く禁じられていました。
そのため、仏教寺院は原則として女人禁制で、僧侶たちは、稚児と呼ばれる少年に身の回りの世話をさせました。
この稚児が僧侶たちの性欲の捌け口になったのです。
仏教では本来、男色も罪にあたるのだそうですが、日本の坊主達は、稚児は女性ではないから、彼らとセックスする分には問題がないだろう、と自分達に都合よく解釈したのです。
稚児になるのは公家など貴族階級の子弟が多かったそうですが、稚児の役割が単なる身の回りの世話から、僧侶の性愛の対象へと変化するにつれて、常人(一般人)の子弟であっても稚児になる者がでてきたといいます。
僧侶の側から積極的に美少年を物色し、美少年であれば身分に関係なく、稚児にして寵愛するようになったのです。
当初は寺院の中でこっそりと行なわれていた男色も平安時代も後期になると、かなりおおっぴらになり、名門の大寺院は多数の稚児を抱えるようになり、
京都の醍醐寺の桜会(さくらえ)や比叡山延暦寺の春分の延年舞など、稚児が舞を披露する催しには多くの稚児好きの男達が集って、稚児の品さだめに興じたといわれています。
また寺院間で美しい稚児を取り合うようなことも起ったそうです。
室町時代の物語である「秋の夜長物語」には、梅若という美貌の稚児をめぐって、日頃から犬猿の仲であった天台宗山門の比叡山延暦寺と寺門の園城寺(三井寺)との間で争いが起り、
山門側の二十万七千余の僧兵が三井寺を攻めて金堂、講堂はもちろんのこと、三千六百余の堂塔に火を放ち、焼き尽くしたと書かれてあります。
これは物語(フィクション)なので、数字については割り引いて考える必要があると思いますが、当時の僧侶の間でいかに稚児の人気が高かったかをよく伝えています。
また天台宗や真言宗には、稚児灌頂(ちごかんじょう)と呼ばれる密教の秘儀が存在しました。
これは簡単にいうと、稚児と高僧の婚礼の儀式のことで、天台宗の僧侶、恵心僧都(けいしん・そうず)作といわれる「弘児聖教秘伝(こうちごしょうぎょうひでん)」には、儀式の式次第や、初夜にあたっての稚児と僧侶双方の心構えや作法が事細かに記されているそうです。
さらに京都の醍醐寺には、平安時代後期の天台宗の僧、鳥羽僧正(とばそうじょう)筆と伝えられる、稚児と僧侶や公家の性行為が微に入り細に穿って描かれてある「稚児の草子(ちごのそうし)」と呼ばれる絵巻物が秘蔵されているといわれています。
この絵巻物は門外不出で、一般には公開されていないそうですが、模倣品は出回っていて、それを見る限り、春画以外の何者でもありません。
ただし、春画といっても、あの鳥獣人物擬画(ちょうじゅうじんぶつぎが)の作者とされる鳥羽僧正の筆になるといわれるだけあって、なかなか格調の高い、趣きのある春画になっています。
それにしても、僧侶しかも高僧といわれる人達の筆になる男色の秘伝書や春画が残っている国は世界広しといえども、日本くらいなもんじゃないでしょうか。
これらの秘伝書や絵巻物以外にも、鎌倉・室町時代には、僧侶と稚児の恋をテーマにした多くの物語や絵草子が書かれ、当時の僧侶の日常生活に男色が深く浸透していたことがよくわかります。
明治になって僧侶に妻帯が許されるようになって、僧侶の男色の習慣も徐々に下火になっていきますが、それでも仏教の僧侶が日本の男色文化の重要な担い手であったという事実は変わらないと思います。
● 公家と男色
僧侶階級の間に生まれた男色の習慣はすぐに公家階級にも伝わったようです。
元々、僧侶階級と公家階級の間の交流は密接で、公家の子弟が少年のときに寺院に入って稚児として僧侶に仕える習慣がありましたし、また公家の身分に生まれても様々な事情から出家して僧侶になる者も多かったそうですから、当然といえば当然でしょう。
ただし、公家の場合は僧侶のように女性とのセックスは禁止されていなかったことから、わざわざ少年を相手にする必要はなかったのではないかという疑問は残ります。
「あっちはあっち、こっちはこっち」といった感じで両方、楽しんでいたのでしょうか。
紫式部作の「源氏物語」には主人公の光源氏が空蝉(うつせみ)という人妻に懸想して、空蝉の弟の小君(こぎみ)という少年の手引きで首尾よく空蝉の屋敷に忍び込むことに成功するものの、
間一髪のところで空蝉に逃げられてしまい、しょうがなく、その晩は空蝉によく似た弟の小君を抱いて寝たという話がでてきます。
このような話を読むと、当時の男は女性と少年をあまり区別せず、美しければどっちでもよいと考えていたのではないか、と推測したくなります。
源氏物語はフィクションですが、ノンフィクションには藤原頼長という公家が自分の男色体験を赤裸々に書き綴った台記(たいき)という日記が残っています。
藤原頼長は摂政・関白を代々輩出する藤原家に生まれ、左大臣の位にまで昇りつめた身分の高い公家ですが、
日記によると関係を持った貴族は名前が判明しているだけでも七人に及び、その他の下人、随身や牛飼童(うしかいわらわ)にいたっては数知れずという発展ぶりだったそうです。
ただし、現在のホモと異なるのは、妻妾も何人かいて、子供を沢山、作っていることです。
この頼長の生きた平安朝後期は、天皇が自分の息子や孫に天皇の位を譲って、太政天皇=上皇となって院政を敷いた時代ですが、この時代に上皇として権勢を振るった白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇は全員、女色だけでなく男色も嗜む両刀使いでした(「院政期の日本人」を参照)。
その結果、天皇や上皇と男色関係を持つことで寵愛を受け、高位高官に引き立てられる男性の家臣もでてきます。
彼らは中国の例にならって男寵(なんちょう)と呼ばれましたが、中には帝の寵愛を一身に集め、夜の関白とか芙蓉の殿上人とかあだ名されるほどの羽振りを利かした公家もいたそうです。
彼らは天皇や上皇の愛人になることを恥ずかしいことであるとは考えず、反対に非常に光栄なことと考えていたようです。
いったん帝の寵愛を受けるようになると、本人だけでなく、一族郎党に出世の道が開けることから、本人の妻も含めて大変、喜んだといいます。
この平安朝後期の院政時代は、政権が公家から武家へと移行する過渡期でもありました。
武士は元々、有力な公家の私兵的存在でしたが、院政時代になると上皇の住む院の警護にあたる武士がでてきます。
これらの武士を北面の武士と呼び、その中には上皇の目に適って、上皇の枕席に侍る者もいたそうです。
「平家にあらずんば人にあらず」といわれたほどの栄華を誇った平家の棟梁、平清盛は、実は白河天皇が身分の低い女に生ませた子供で、白河天皇が当時、寵愛していた平忠盛に母子ともに下賜し、忠盛は天皇のご落胤である清盛を自分の嫡男として育てたという説があります。
これが本当であれば、平家勃興のきっかけは、忠盛と白河天皇の男色関係にあったということになります。
さらに平清盛の嫡男、平重盛は後白河上皇の男色の相手だったといわれていますし、平家を倒して鎌倉幕府を開いた源頼朝も若い頃、院に仕えていたときに後白河上皇の枕席に侍ったという噂があります。
● 武士と男色
上記の「公家と男色」の項に書いたように、平家や源氏のような有力な武家は、平安時代末期には下級貴族としてすでに公家社会の男色の習慣に染まっていたのですが、政権が公家から武家の手に移ると男色の習慣はますます拡がり、日本の男色文化はピークを迎えます。
将軍の近習としての児小姓の制度が確立されたのは足利幕府の時代だそうですが、武将や大名達も将軍を真似て競って美少年を小姓として召抱え、寵愛するようになります。
足利幕府三代将軍の足利義満と能楽の創始者となった世阿弥、織田信長と森蘭丸の関係が有名ですが、そのほかにも上杉謙信、武田信玄、伊達政宗、石田三成、明智光秀、徳川家康、等々、名だたる武将が美童を寵愛したことで知られており、
戦国武将で唯一、男色に関心を持たなかったのは百姓あがりの豊臣秀吉ぐらいだったといわれています。
臣下が平気で主君を裏切る下克上の戦国の世にあっては、主君としては、まだ幼い少年時代から手元に置いて夜伽をさせ、精神的にも肉体的にも固い契りを結んだ家臣しか信用できないところがあったでしょうし、
臣下としても主君の男色の相手になって寵愛を受けることは出世の早道だったわけで、喜んで忠君に励んだものと思われます。
この時代、「忠君」という言葉には、かなりセクシュアルな意味が含まれていたんですね。
武家社会では、主君と家臣の間だけでなく、武士同士の男色関係も盛んになります。
年長の武士を兄分、年少の武士を弟分とする義兄弟の契りを結ぶ慣習が武士の間で広まり、年頃になっても念者と呼ばれた兄分を持たない少年は、肩身の狭い思いをしたといわれています。
このような武士階級の男色は、武士道と結びついて衆道(しゅどう)と呼ばれ、その関係においては、肉体的な面だけでなく精神面が重要視されました。
たとえば、主君が死んだ場合には、主君の寵愛を受けた小姓は主君の後を追って殉死するのが美徳とされましたし、
義兄弟の契りを結んだ相手がなんらかの事件に巻き込まれて殺された場合、残された兄分あるいは弟分は、自分の兄弟分の仇討ちをする義務があると考えられていました。
このような主君の後を追う殉死や義兄弟の仇討ちは藩によっては禁止されていたそうですが、それでも後を絶たなかったといわれています。
しかし、やがて衆道そのものが幕府や藩によって禁止されるようになります。
その理由としてはまず第一に、衆道関係に端を発した斬った張ったの刃傷沙汰が絶えなかったことが挙げられます。
一人の少年を二人の年長者が取り合ったり、義兄弟の契りを交わしたにもかかわらず、弟分がほかの男に恋してしまったり、男同士の三角関係をめぐるトラブルが後を絶たず、それが当事者間だけでなく、
その一族までも巻き込む抗争に発展することも少なくなかったそうで、そのような事件が頻発することに業を煮やした藩が、藩下の武士が義兄弟の契りを結ぶことを禁止するようになったというのです。
二番目の理由としては、江戸時代も中期になると、世の中も平和になり、それと共に武士の役割が「戦士」から「官僚」に変容していったという時代の変化が挙げられます。
戦国時代には威力を発した戦士間の友愛も、平和な時代には幕藩体制という官僚制度の秩序を乱す個人的で私的な関係として見られるようになったというのです。
その結果、18世紀に入ると、武士階級の男色関係は衰えをみせるようになりますが、それと並行して、それまでの精神性を重んじた衆道ではなく、より商業主義的、快楽主義的な男色文化が現れてきます。
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(興福寺 阿修羅像写真左)

日本の過去の男色文化や男色の歴史については数多くの研究がなされており、私ごときシロウトが口を挟むのはおこがましいのですが、世界男色帯と銘打ったからには、世界に冠たる男色大国ニッポンを素通りするわけにはいきません。
ということで、過去の日本の男色の歴史を簡単に振り返り、日本の男色文化の特徴を短くまとめてみたいと思います。
● 僧侶と男色
日本に最初に男色の習慣をもたらしたのは真言宗の開祖、弘法大師こと空海(835-921)であるといわれています。
彼が当時、先進国だった留学先の唐から真言密教とともに男色の習慣を日本に持ち帰ったというのです。
その真偽はともかくとして、日本で最初に制度的な男色の慣習が確立したのは仏教寺院であったことは間違いないようです。
仏教では女性は穢れた存在であるとみなされ、僧侶が女性と性的な関係を持つことは女犯の罪として固く禁じられていました。
そのため、仏教寺院は原則として女人禁制で、僧侶たちは、稚児と呼ばれる少年に身の回りの世話をさせました。
この稚児が僧侶たちの性欲の捌け口になったのです。
仏教では本来、男色も罪にあたるのだそうですが、日本の坊主達は、稚児は女性ではないから、彼らとセックスする分には問題がないだろう、と自分達に都合よく解釈したのです。
稚児になるのは公家など貴族階級の子弟が多かったそうですが、稚児の役割が単なる身の回りの世話から、僧侶の性愛の対象へと変化するにつれて、常人(一般人)の子弟であっても稚児になる者がでてきたといいます。
僧侶の側から積極的に美少年を物色し、美少年であれば身分に関係なく、稚児にして寵愛するようになったのです。
当初は寺院の中でこっそりと行なわれていた男色も平安時代も後期になると、かなりおおっぴらになり、名門の大寺院は多数の稚児を抱えるようになり、
京都の醍醐寺の桜会(さくらえ)や比叡山延暦寺の春分の延年舞など、稚児が舞を披露する催しには多くの稚児好きの男達が集って、稚児の品さだめに興じたといわれています。
また寺院間で美しい稚児を取り合うようなことも起ったそうです。
室町時代の物語である「秋の夜長物語」には、梅若という美貌の稚児をめぐって、日頃から犬猿の仲であった天台宗山門の比叡山延暦寺と寺門の園城寺(三井寺)との間で争いが起り、
山門側の二十万七千余の僧兵が三井寺を攻めて金堂、講堂はもちろんのこと、三千六百余の堂塔に火を放ち、焼き尽くしたと書かれてあります。
これは物語(フィクション)なので、数字については割り引いて考える必要があると思いますが、当時の僧侶の間でいかに稚児の人気が高かったかをよく伝えています。
また天台宗や真言宗には、稚児灌頂(ちごかんじょう)と呼ばれる密教の秘儀が存在しました。
これは簡単にいうと、稚児と高僧の婚礼の儀式のことで、天台宗の僧侶、恵心僧都(けいしん・そうず)作といわれる「弘児聖教秘伝(こうちごしょうぎょうひでん)」には、儀式の式次第や、初夜にあたっての稚児と僧侶双方の心構えや作法が事細かに記されているそうです。
さらに京都の醍醐寺には、平安時代後期の天台宗の僧、鳥羽僧正(とばそうじょう)筆と伝えられる、稚児と僧侶や公家の性行為が微に入り細に穿って描かれてある「稚児の草子(ちごのそうし)」と呼ばれる絵巻物が秘蔵されているといわれています。
この絵巻物は門外不出で、一般には公開されていないそうですが、模倣品は出回っていて、それを見る限り、春画以外の何者でもありません。
ただし、春画といっても、あの鳥獣人物擬画(ちょうじゅうじんぶつぎが)の作者とされる鳥羽僧正の筆になるといわれるだけあって、なかなか格調の高い、趣きのある春画になっています。
それにしても、僧侶しかも高僧といわれる人達の筆になる男色の秘伝書や春画が残っている国は世界広しといえども、日本くらいなもんじゃないでしょうか。
これらの秘伝書や絵巻物以外にも、鎌倉・室町時代には、僧侶と稚児の恋をテーマにした多くの物語や絵草子が書かれ、当時の僧侶の日常生活に男色が深く浸透していたことがよくわかります。
明治になって僧侶に妻帯が許されるようになって、僧侶の男色の習慣も徐々に下火になっていきますが、それでも仏教の僧侶が日本の男色文化の重要な担い手であったという事実は変わらないと思います。
● 公家と男色
僧侶階級の間に生まれた男色の習慣はすぐに公家階級にも伝わったようです。
元々、僧侶階級と公家階級の間の交流は密接で、公家の子弟が少年のときに寺院に入って稚児として僧侶に仕える習慣がありましたし、また公家の身分に生まれても様々な事情から出家して僧侶になる者も多かったそうですから、当然といえば当然でしょう。
ただし、公家の場合は僧侶のように女性とのセックスは禁止されていなかったことから、わざわざ少年を相手にする必要はなかったのではないかという疑問は残ります。
「あっちはあっち、こっちはこっち」といった感じで両方、楽しんでいたのでしょうか。
紫式部作の「源氏物語」には主人公の光源氏が空蝉(うつせみ)という人妻に懸想して、空蝉の弟の小君(こぎみ)という少年の手引きで首尾よく空蝉の屋敷に忍び込むことに成功するものの、
間一髪のところで空蝉に逃げられてしまい、しょうがなく、その晩は空蝉によく似た弟の小君を抱いて寝たという話がでてきます。
このような話を読むと、当時の男は女性と少年をあまり区別せず、美しければどっちでもよいと考えていたのではないか、と推測したくなります。
源氏物語はフィクションですが、ノンフィクションには藤原頼長という公家が自分の男色体験を赤裸々に書き綴った台記(たいき)という日記が残っています。
藤原頼長は摂政・関白を代々輩出する藤原家に生まれ、左大臣の位にまで昇りつめた身分の高い公家ですが、
日記によると関係を持った貴族は名前が判明しているだけでも七人に及び、その他の下人、随身や牛飼童(うしかいわらわ)にいたっては数知れずという発展ぶりだったそうです。
ただし、現在のホモと異なるのは、妻妾も何人かいて、子供を沢山、作っていることです。
この頼長の生きた平安朝後期は、天皇が自分の息子や孫に天皇の位を譲って、太政天皇=上皇となって院政を敷いた時代ですが、この時代に上皇として権勢を振るった白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇は全員、女色だけでなく男色も嗜む両刀使いでした(「院政期の日本人」を参照)。
その結果、天皇や上皇と男色関係を持つことで寵愛を受け、高位高官に引き立てられる男性の家臣もでてきます。
彼らは中国の例にならって男寵(なんちょう)と呼ばれましたが、中には帝の寵愛を一身に集め、夜の関白とか芙蓉の殿上人とかあだ名されるほどの羽振りを利かした公家もいたそうです。
彼らは天皇や上皇の愛人になることを恥ずかしいことであるとは考えず、反対に非常に光栄なことと考えていたようです。
いったん帝の寵愛を受けるようになると、本人だけでなく、一族郎党に出世の道が開けることから、本人の妻も含めて大変、喜んだといいます。
この平安朝後期の院政時代は、政権が公家から武家へと移行する過渡期でもありました。
武士は元々、有力な公家の私兵的存在でしたが、院政時代になると上皇の住む院の警護にあたる武士がでてきます。
これらの武士を北面の武士と呼び、その中には上皇の目に適って、上皇の枕席に侍る者もいたそうです。
「平家にあらずんば人にあらず」といわれたほどの栄華を誇った平家の棟梁、平清盛は、実は白河天皇が身分の低い女に生ませた子供で、白河天皇が当時、寵愛していた平忠盛に母子ともに下賜し、忠盛は天皇のご落胤である清盛を自分の嫡男として育てたという説があります。
これが本当であれば、平家勃興のきっかけは、忠盛と白河天皇の男色関係にあったということになります。
さらに平清盛の嫡男、平重盛は後白河上皇の男色の相手だったといわれていますし、平家を倒して鎌倉幕府を開いた源頼朝も若い頃、院に仕えていたときに後白河上皇の枕席に侍ったという噂があります。
● 武士と男色
上記の「公家と男色」の項に書いたように、平家や源氏のような有力な武家は、平安時代末期には下級貴族としてすでに公家社会の男色の習慣に染まっていたのですが、政権が公家から武家の手に移ると男色の習慣はますます拡がり、日本の男色文化はピークを迎えます。
将軍の近習としての児小姓の制度が確立されたのは足利幕府の時代だそうですが、武将や大名達も将軍を真似て競って美少年を小姓として召抱え、寵愛するようになります。
足利幕府三代将軍の足利義満と能楽の創始者となった世阿弥、織田信長と森蘭丸の関係が有名ですが、そのほかにも上杉謙信、武田信玄、伊達政宗、石田三成、明智光秀、徳川家康、等々、名だたる武将が美童を寵愛したことで知られており、
戦国武将で唯一、男色に関心を持たなかったのは百姓あがりの豊臣秀吉ぐらいだったといわれています。
臣下が平気で主君を裏切る下克上の戦国の世にあっては、主君としては、まだ幼い少年時代から手元に置いて夜伽をさせ、精神的にも肉体的にも固い契りを結んだ家臣しか信用できないところがあったでしょうし、
臣下としても主君の男色の相手になって寵愛を受けることは出世の早道だったわけで、喜んで忠君に励んだものと思われます。
この時代、「忠君」という言葉には、かなりセクシュアルな意味が含まれていたんですね。
武家社会では、主君と家臣の間だけでなく、武士同士の男色関係も盛んになります。
年長の武士を兄分、年少の武士を弟分とする義兄弟の契りを結ぶ慣習が武士の間で広まり、年頃になっても念者と呼ばれた兄分を持たない少年は、肩身の狭い思いをしたといわれています。
このような武士階級の男色は、武士道と結びついて衆道(しゅどう)と呼ばれ、その関係においては、肉体的な面だけでなく精神面が重要視されました。
たとえば、主君が死んだ場合には、主君の寵愛を受けた小姓は主君の後を追って殉死するのが美徳とされましたし、
義兄弟の契りを結んだ相手がなんらかの事件に巻き込まれて殺された場合、残された兄分あるいは弟分は、自分の兄弟分の仇討ちをする義務があると考えられていました。
このような主君の後を追う殉死や義兄弟の仇討ちは藩によっては禁止されていたそうですが、それでも後を絶たなかったといわれています。
しかし、やがて衆道そのものが幕府や藩によって禁止されるようになります。
その理由としてはまず第一に、衆道関係に端を発した斬った張ったの刃傷沙汰が絶えなかったことが挙げられます。
一人の少年を二人の年長者が取り合ったり、義兄弟の契りを交わしたにもかかわらず、弟分がほかの男に恋してしまったり、男同士の三角関係をめぐるトラブルが後を絶たず、それが当事者間だけでなく、
その一族までも巻き込む抗争に発展することも少なくなかったそうで、そのような事件が頻発することに業を煮やした藩が、藩下の武士が義兄弟の契りを結ぶことを禁止するようになったというのです。
二番目の理由としては、江戸時代も中期になると、世の中も平和になり、それと共に武士の役割が「戦士」から「官僚」に変容していったという時代の変化が挙げられます。
戦国時代には威力を発した戦士間の友愛も、平和な時代には幕藩体制という官僚制度の秩序を乱す個人的で私的な関係として見られるようになったというのです。
その結果、18世紀に入ると、武士階級の男色関係は衰えをみせるようになりますが、それと並行して、それまでの精神性を重んじた衆道ではなく、より商業主義的、快楽主義的な男色文化が現れてきます。
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by jack4africa
| 2008-09-12 01:01