2008年 09月 30日
アボリジニの少年妻 |
アボリジニを調査、研究した初期の民俗学者たちは、アボリジニの部族の間で若者が少年と結婚する少年妻の制度が広く普及していたことを報告しています。
アボリジニの若者は、割礼を含む一連の通過儀礼(イニシエーション)を終えると一人前のオトコとして認められて、結婚できるようになるのですが、彼が結婚する権利を持つ娘がまだ生まれていない場合、
あるいは生まれていても、まだ幼くて結婚年齢に達していない場合には、娘と結婚できるようになるまでの間、その兄である少年を一時的に妻にする習慣があったというのです。
少年妻になるのは割礼前の少年で、この少年妻の制度には通過儀礼としての男同士のセックスで紹介したメラネシアの部族の場合と同様、
少年が自分の体内にオトナの男の精液を受け入れることで、一人前の男になる通過儀礼の意味合いもあったようです。
さらに女性と結婚したあとでも、妻が旅行などで不在のときには、妻の留守中、その弟を少年妻にして自分の身の回りの世話をさせ、セックスの相手をさせる習慣もあったといいます。
その結果、アボリジニの男性は、自分の妻の兄弟と男色関係を持つことが一般的になっていたそうです。
さらに娘と結婚する前に、その父親の「妻」になり、その父親とセックスする習慣もあったといいます。
その場合、若者は「妻」としてアナル・セックスでウケ役を務めたそうです。
このようなアボリジニの性行動は、われわれ現代人の感覚からすると随分と乱れているような印象を受けますが、必ずしもそうではなく、その行動は文化人類学でいう「交換」の概念に基づいた一定のルールに従っているのです。
この「交換」の概念は、アフリカのピグミー族やニューギニアなどメラネシアの部族、アマゾンのインディオなど未開部族によくみられる「姉妹婚」の習慣と密接に結びついています。
たとえば、アフリカのピグミー族は30人から50人の集団で森の中を移動しながら狩猟採集を行なっていますが、近親婚を防ぐために結婚相手は別の集団から選びます。
この結婚相手を見つける集団はある程度、決まっていて、2つの集団、AとBがペアになって妻になる女性を交換するのです。
たとえば、集団Aに属する若い男が集団Bに属する若い娘との結婚を望む場合、彼は自分が結婚したいと思う娘の兄弟の一人に自分の姉妹の一人を妻として差し出すのです。
妻として差し出す姉妹がいない場合には、身内の若い娘を名目的な「妹」に仕立てて差し出すそうですが、
理想的には集団Aと集団Bに属する2人の若者が互いの姉妹を交換して結婚することになり、これを文化人類学で「兄弟=姉妹婚」と呼びます。
アボリジニの少年妻の制度は、このギブ・アンド・テイクの「交換」の概念に基づいた兄弟=姉妹婚を敷衍したものといえます。
つまり、兄弟=姉妹婚のルールにしたがって、若者に娘を提供する義務を負っている家族に娘がまだ生まれていないか、生まれていてもまだ幼くて結婚年齢に達していない場合に、その代わりに息子を少年妻として若者に差し出すわけです。
前述した父親が娘の婚約者の若者とセックスするケースも同じ交換の概念で説明できます。
父親は娘の婚約者である若者に自分の娘とセックスして楽しむ権利を与える見返りに、若者にたいして性的なサービスを要求するわけです。
通常、未開部族では、このような「交換」は、婚約者の若者が妻になる女性の父親に「婚資」と呼ばれるお金や家畜その他の物を贈ったり、
妻になる女性の家に一定期間、通って農耕や牧畜を手伝ったりする「労働奉仕」の形をとるのですが、アボリジニの場合は、「労働奉仕」の代わりに「性的奉仕」を行なうのです。
「お義父さん、やめてください!!」
「いいじゃないか、どうせ俺の息子になるんだろ!」
「アッーーー!!!」
てな感じでしょうか・・・(笑)
「交換」の概念と関係があるかどうか知りませんが、日本でも平安時代の貴族は自分の妻の兄弟と男色関係を持つことが多く、
戦国時代の武将が寵童だった男に自分の妹や娘を娶らせるというようなこともよく行なわれていました。
そういう意味では義理の兄弟や父親と男色関係を持つのは、アボリジニの専売特許とはいえないのですが、
このようなアボリジニの習慣がオーストラリアに入植した白人たちの目には野蛮で嫌悪すべき悪習に映り、それが白人たちによるアボリジニの迫害、虐殺の引き金になったことは十分に考えられます。
そもそも白人入植者は、アボリジニを人間扱いしていなかったみたいで、動物の代わりにアボリジニを獲物に見立てて狩りを楽しむ「スポーツハンティング」を行なってアボリジニを虐殺したといわれています。
白人が入植する以前にはオーストラリアには、約30万人のアボリジニが住んでいたそうですが、このような白人入植者による虐殺や白人入植者が持ち込んだ病原菌による疫病が原因で、
その数は20世紀初頭にはわずか6万人にまで減少し、オーストラリア南部やタスマニアの先住民は絶滅してしまったそうです。
さらに1930年代から戦後にかけて、悪名高い「白人同化政策」が実施されます。
これはアボリジニの子供たちを親元から引き離して寄宿舎に収容し、そこで白人に同化するように教育を行なう政策で、親と強制的に切り離された子供たちがショックで自殺したり、精神に異常をきたすなど様々な悲劇を生み出します。
1970年代に入ると、アボリジニの間から白人に奪われた土地を取り戻そうという土地復権運動が起こり、オーストラリア各地で徐々にアボリジニの土地所有権が認められるようになります。
現在では、オーストラリアにおけるアボリジニの立場はかなり改善されてきて、アボリジニにたいする社会保障制度なども整備されつつあるそうですが、
「人はパンのみにて生きるにあらず」で、社会保障によって物質的な生活は保障されたとしても、白人によって民族の伝統文化を否定され、アイデンティティーを喪失してしまった後遺症ともいうべき、
失業率の高さやアルコール依存症、若者の非行や自殺率の高さなど、アボリジニが抱える深刻な問題はいまだに解決されていないようです。
I still call Australia home
参照文献:Homosexualities、Stephan O. Murray
「世界男色帯」の目次に戻る
by jack4africa
| 2008-09-30 00:04