2008年 10月 28日
皇帝たちの男色(古代ローマ) |
ハドリアヌス帝が寵愛した美貌の若者、アンティノウスの像(写真左)
建国当時のローマは、質実剛健で純朴な性格の国家でしたが、宿敵カルタゴを倒して地中海世界を制覇し、共和制を経て帝政時代に至ると、
その文化は爛熟し、退廃の色を濃くし、性道徳は乱れ、売春や不倫、男色、近親相姦、等が社会に蔓延したといわれています。
男色については、古代ギリシャの少年愛にみられるような倫理的な面は陰を潜め、もっぱら快楽主義的な面が強調されるようになります。
歴代の皇帝は、女色だけでなく男色も好む両刀使いが大半で、シーザーから数えて15代までのローマ皇帝のうち、男色に関心を持たなかったのはクラウディウス帝だけだったといわれています。
☆ カエサルとその後継者たち
ローマ帝国の基礎を築いた一代の英雄、ジュリアス・シーザーことガイウス・ユリウス・カエサル(前100-前40)は、英雄、色を好むの言葉通り、エジプトの女王、クレオパトラをはじめとして、多くの女性と浮名を流したことで知られていますが、
古代ローマの多くの男性と同様、男色も好み、「ローマのすべての女の夫、すべての男の妻」と呼ばれたそうです。
カエサルは軍人として赫々たる戦果を挙げましたが、小アジアのビテュニアで初めて軍務に就いた20歳のとき、ビテュニアのニコメデス王と男色関係をもったといわれています。
このときの関係で、若きカエサルは「愛される側」、すなわち受動的な役割を務めたそうで、その結果、「ビテュニアの王妃」という有難くないあだ名を付けられます。
古代ギリシャと同様、古代ローマでも、男同士のセックスでウケ役を演じることは不名誉なことと考えられていて、ニコメデス王との男色スキャンダルは終生、汚名として彼に付きまといます。
カエサルがガリア戦争に勝利したあとの凱旋式で、カエサルを乗せた凱旋車のあとを行進するカエサルの兵士たちは、ふざけて次のように歌ったそうです。
カエサルはガリアを、ニコメデスはカエサルを押さえつけた。
みよ、ガリアを押さえ込んだカエサルがいまや凱旋式をあげるのに、
カエサルを押さえたニコメデスは凱旋式をあげられない・・・
カエサルは共和制から帝政への移行のため、元老院の権力をそぎ、みずから終身独裁官に就任しますが、カエサルへの権力の集中を嫌ったグループによって暗殺されてしまいます。
カエサルの後を継いだのは、カエサルの姪の息子のアウグストゥスことガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス(前62-後14)です。
オクタウィアヌスは、背は低いものの、美青年で、彼と後継者の地位を争ったライバルのマルクス・アントニウスは、「オクタウィアヌスは、大叔父のカエサルと男色関係を持つことで、カエサルの養子の地位を勝ち取った」と罵っています。
さらに、マルクス・アントニウスの弟のルキウスは、「オクタウィアヌスは、カエサルに後ろの処女を与えたあと、イスパニアにいたとき、カエサルの友人のアウルス・ヒルティウスに30万セステルティウスで身体を売った」と非難しています。
しかし、マルクス・アントニウスもまた、若い頃に男性相手に身体を売ったことがあるといわれています。
古代ギリシャでは、自由市民の子弟が売春を行なったことが判明した場合には、市民権を剥奪されたそうですが、ローマ時代になるとだいぶ規範のタガが緩んだみたいで、後述するように、皇后や皇帝までもが売春するようになります。
オクタウィアヌスは、この若い頃の汚名をすすぐために、権力の座に就いてからは男色には一切、手を出さなかったといわれています。
彼は統治者としては非常に優秀で、養父のカエサルが着手した帝政への移行を完成し、元老院からアウグストゥス(尊厳者)の称号を得て、ローマ帝国初代皇帝に就任します。
アウグストゥスの後を継いだのは、愛妻、リウィアの連れ子のティベリウスことティベリウス・クラウディウス・ネロ・カエサル(前42-後37)です。
ティベリウスは皇帝に就いたときすでに50台半ばで、最初のうちは一応、真面目に皇帝の職務を果たしますが、二人の息子に先立たれると、68歳のときに国事を近衛軍団長、セイヤヌスに任せて、カプリ島に隠遁してしまいます。
カプリ島では、本来の好色性を発揮し、別荘に「セラリア」と呼ばれる乱交用の部屋を設けて、少年少女や年増の男女を集め、
互いの肉体を結合させて人間の輪を作る「スピントリア」と呼ばれる卑猥な遊びをさせて楽しんだといわれています。
またカプリ島の「青の洞窟」と呼ばれる海水を湛えた洞窟の中で、彼が「雑魚」と呼んだ小さな子供たちと一緒に泳ぎ、子供たちに自分の股の間を潜らせて、自分の秘所を舌や歯で刺激することを教えたといわれています。
ティベリウスは吝嗇で、猜疑心が強く、冷酷かつ残虐な皇帝で、肉親も信用せず、死んだ息子の嫁や孫を殺し、腹心だったセイヤヌスをはじめ、多くの臣下の忠誠を疑って処刑し、
ほかにも多くの人々を些細な罪で処刑したり、残酷な拷問にかけたので、78歳で彼が死んだときには、ローマ市民は大喜びしたそうです。
ティベリウスの後を継いだのは、ティベリウスに殺されなかった孫の一人、カリグラことガイウス・カエサル・ゲルマニクス(12-41)です。
ローマ市民は24歳の若い皇帝の就任を歓迎しますが、まもなく彼がティベリウスなど問題にならないほど極悪非道な人物であることを発見します。
皇帝となったカリグラは、民衆の歓心を買うために、奇抜で豪華な見世物を数多く催し、吝嗇家だった先帝、ティベリウスが残した、総額27億セステルティウスにのぼる莫大な遺産を一年も経たないうちに遣い果たしてしまいます。
無一文になったカリグラは、守銭奴に変身し、ありとあらゆるものに課税し、最後には売春にまで課税して、売春が儲かることがわかると、
みずから売春宿の経営に乗り出し、良家の婦女子や青年を売春婦(夫)として働かせたといいます。
また多くの富裕な市民に遺言書で自分を相続人に指名させてから、彼らに毒入りの料理を与えて殺したそうです。
カリグラは3人の妹の全員と近親相姦の関係を持ち、一番上の妹のドルシラを正妻同様に扱い、彼女が若くして亡くなったときには、半狂乱になって悲しんだといわれています。
下の妹2人には、それほどの愛情を示さず、自分が買った男娼相手に売春させたりしています。
その後、自分の暗殺を企てたとして二人を流罪にしてしまいます。
カリグラは女装を好み、女装して踊ったり、女神の扮装で人前に出たりしたそうです。
舞台俳優や人質、貴族の子弟などと男色関係を持ったそうですが、女性関係も乱れ、部下の妻を気に入って無理やり離婚させて自分の妻にして、直ぐに飽きて棄てるというようなことを繰り返したといいます。
彼は正真正銘のサディストで、自分が楽しむためにだけ、何の罪もない人を次から次へと残酷な方法で殺したので、多くの人間の恨みを買って、三年と二ヶ月、統治しただけで、29歳の若さで暗殺されてしまいます。
カリグラの後を継いだのは彼の伯父、クラウディウス(前10-後54)です。
カリグラは、自分の地位を脅かす可能性のある一族の男子をすべて殺しましたが、愚鈍で知られていたこの伯父だけは、なぶり者にして楽しむために生かしておいたといいます。
クラウディウスは、ローマ皇帝にはめずらしく男色に関心がなく、女色一辺倒でしたが、女運はよくありませんでした。
生涯に4回、結婚しましたが、揃いも揃って悪妻ばかり。特に3番目の妻、メッサリーナは淫乱で有名で、皇后の身でありながら夜な夜な変装して街に出て、売春宿で売春婦として客を取ったといわれています。
さらに、メッサリーナはクラウディウスの留守中に愛人の一人と結婚式を挙げてしまい、重婚罪で処刑されてしまいます。
メッサリーナの死後、クラディウスは、カリグラの妹の一人で、自分の姪にあたるアグリッピナの美貌に惹かれ、彼女と4回目の結婚をします。
アグリッピナがクラウディウスとの結婚を承諾したのは、前夫との間にできた息子のネロを皇帝にするためで、結婚後、ネロと一緒にクラウディウスを毒殺してしまいます。
暴君ネロとして知られる、ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス(37-68)は、母親のアグリッピナと近親相姦の関係にあったといわれています。
ネロは、自分の地位を脅かすクラウディウスの実子のブリタンニクスを殺し、自分にうるさく干渉する母親のアグリッピナを嫌って、彼女も殺してしまいます。
さらに家庭教師だったセネカも自殺に追い込みます。
生涯に何度も結婚していますが、最初の妻、オクタウィアは早くから疎んじ、姦通罪の汚名を着せて殺してしまいます。
二番目の妻、ポッパエア・サビナは絶世の美女で、最愛の妻でしたが、夫婦喧嘩のあげく、彼女の身重のお腹を蹴ってしまい、それが原因で死なせてしまいます。
男性とも二回、結婚しています。
最初の結婚では、奴隷のピュタゴラスを夫に選んで、正式に結婚式を挙げたといわれていますが、この結婚は、皇帝の身分で「花嫁」になったことと、結婚相手が奴隷だったことから、大いに顰蹙を買ったそうです。
二度目の男性との結婚の相手は、亡くなったポッパエアに生き写しの美少年、スポルスで、彼を去勢してサビナの名前を与えて花嫁にしたといいます。
ネロは歌が好きで、歌手としてよく舞台に立ったそうです。
ということは、ペプシのCMでエンリケ・イグレシアスが扮したローマ皇帝は、やっぱりネロでしょうか(笑)
実際、ネロは男の剣闘士だけでなく、女の剣闘士も闘わせたそうです。
64年にはローマの古い醜悪な建物や狭く曲がりくねった道路が気に入らないといってローマの街に火を放ちます。
ネロが放った火は大火となって燃え広がり、六日と七晩、燃え続け、多数の建物を焼き尽くしますが、ネロはその様子をローマ郊外の別荘から見物し、炎の美しさにうっとりして眺めていたそうです。
その後、各地で反乱が相継ぎ、73歳の老将軍、ガルバ(前3-後69)が反乱軍の指導者となってネロに反旗を翻し、元老院も反乱軍側に味方したため、追い詰められたネロは逃亡先で自殺します。
ネロの「妻」、スポルスは、ネロの自殺に立ち会いますが、生き延びて、次の皇帝になったガルバに仕えます。
ガルバは女色よりも男色を好み、特に成熟した剛健な男子を好んだといいますが、わずか7ヶ月間、在位しただけで、次の皇帝のオト(32-69)に殺されてしまいます。
オトは若いとき、ネロの遊び仲間で、ネロの男色相手の一人だったそうですが、ネロの「未亡人」のサビナことスポルスがネロが自殺したときに殉死せず、ネロとガルバの二夫にまみえたといって非難し、
スポルスに娼婦の扮装をさせて公衆の面前で侮辱したため、スポルスは屈辱のあまり、舌を噛み切って自殺したといわれています。
☆ 五賢帝時代
西暦96年から180年まで、ネルウァ(35-98)、トラヤヌス(53-117)、ハドリアヌス(76-138)、アントニウス・ピウス(86-161)、マルクス・アウレリウス・アントニヌス(121-180)の五人の皇帝が統治した時代は、五賢帝時代と呼ばれ、ローマ帝国は最盛期を迎えます。
この五賢帝時代の5人の皇帝に共通するのは全員、女色よりも男色を好んだことで、そのせいかどうか、最初の4人の皇帝は実子に恵まれず、自分が寵愛する聡明で美貌の若者を養子にして、彼らを後継の皇帝に指名しました。
そのお陰で、聡明な賢帝が続くことになり、彼らの治世の下、ローマ帝国は未曾有の繁栄を謳歌します。
パックス・ロマーナは、男色好きの皇帝たちによって実現したのです!
五賢帝時代の一番、有名な男色のエピソードは、ハドリアヌス帝とその愛人、アンティノウスの物語です。
アンティノウスは、ハドリアヌス帝が寵愛したビテュニア出身の美貌の若者ですが、皇帝に付き添ってエジプトに行ったときにナイル河で水遊びをしていて、溺れ死んでしまいます。
愛するアンティノウスの死を嘆き悲しんだハドリアヌス帝は、アンティノウスが死んだ場所に彼の名を付けた都市、アンティノオポリスを建設し、彼の神殿を建てて奉り、帝国中に彼の像を建てさせます。
そのお陰で、現在でも多くのアンティノウス像が残っていて、皇帝が寵愛した美貌の若者の面影を偲ぶことができます。
☆ ヘラガバルス
最後に奇人変人揃いのローマ皇帝の中でもひときわ異彩を放つ皇帝、ヘラガバルス(203-222)を紹介しておきます。
ヘラガバルスは、先々代の皇帝、カラカラの従弟でしたが、母、ユリアは実子であると主張して、息子を皇帝の座に据えます。
14歳で皇帝に就任したこの少年皇帝は、女装と男色を好み、男とのセックスではもっぱらウケ役を務め、「身体中のあらゆる穴によって情欲を満たそうとした」といわれています。
女装しては街にでて、売春宿でみずから売春婦として男性客の相手をし、部下に命じて、公共浴場や波止場で逞しい青年を物色させて彼らに身を任せ、自分のことを「女后」とか「奥方」と呼ばせたそうです。
しまいには、アレキサンドリアから名医を招き、男性器を切除して、穴を開ける性転換手術を受けたといわれています。
在位4年で、そのあまりに常軌を逸した行動に呆れ果てた親衛隊によって殺され、遺体は首を切られ、裸の首なし死体は街中を引きまわされてから、テベレ河に投げ込まれたそうです。
ローマ帝国は多民族国家で、貴族、平民、奴隷の階級制度はそれほど厳格ではなく、奴隷でも金を積めば解放されて平民になることができたといわれています。
女性の地位もギリシャと較べると高かったそうです。
それでも裁判で証人になれるのは、成人男性だけで、女性と思春期までの少年、宦官、奴隷はなれませんでした。
英語のtestimony(宣誓証言)は、ラテン語で睾丸を意味するtestisが語源で、古代ローマの裁判では、証人が自分の睾丸の上に手を当てて宣誓する習慣があったことから来ています。
証人に立った男性は、男の象徴であるキンタマに誓って真実を述べたわけで、キンタマを持たない女性、キンタマが成熟していない少年、
持っていたけれど切り取ってしまった宦官、持っていても持っているとはみなされなかった奴隷は、証人にはなれなかったのです。
ネロ(?)
参照文献:
ローマ皇帝伝、スエトニウス
少年愛の美学、南方熊楠稚児談義、稲垣足穂
「世界男色帯」
by jack4africa
| 2008-10-28 00:24