2008年 12月 18日
なぜアメリカの同性愛者は同性婚を望むのか |
先月4日にアメリカのカリフォルニア州で実施された住民投票で、同性婚を禁じる州憲法改正案が採択されたことに抗議してアメリカの同性愛者たちがデモを行なっている様子をテレビのニュースで見ました。
カリフォルニア州では、今年の5月に州の最高裁で同性婚を認める決定が下され、これまで全米からやってきた約1万8000組の同性カップルに結婚証明書が発行されたそうですが、
同性婚に反対するキリスト教右派など保守派の住民が巻き返しに出て、同性婚の是非を問う住民投票の実施に持ち込み、今回の採択に漕ぎつけたのだそうです。
ニュースでは、体外受精で作った子供が2人いる、結婚式を挙げてまもないレスビアンのカップルが紹介され、今回の州憲法改正案の採択で、せっかく勝ち取った婚姻が無効になるのではないかと不安を語っていました。
一方、同性婚に反対する男性も出てきて、アメリカ人は神の教えや聖書の規範を守る必要があると力説していました。
このニュースを見ていて思ったのは、アメリカでは、同性婚を望む人間も、同性婚に反対する人間も、それぞれ真剣だということです。
同性婚を望む人間は真剣に同性婚を望み、同性婚に反対する人間は真剣に反対しているのです。
同性婚を真剣に望む人間も、同性婚に真剣に反対する人間も存在しない日本とは大きな違いです。
日本でも同性婚を真剣に望んでいる人間はいるとゲイリブはいうかもしれませんが、去年、参院選に立候補したレスビアン候補の尾辻かな子が、
選挙キャンペーンで、マスコミを呼んで派手な同性結婚式を挙げておきながら、落選した途端、「離婚」した事実をみれば、
ゲイリブ活動家を自称する人間でも同性婚というものを単なる話題作りの道具としか考えていないことがよくわかります。
彼女の取った行動は同性婚を真面目に考えている人間に対する裏切り行為で、非難されてしかるべきですが、そのような非難の声がいっこうに聞こえてこないのは、
ゲイリブの中でも同性婚を真剣に考えている人間など一人もいないからでしょう。
もう一つこのニュースを見ていてわかったことは、同性婚に賛成するアメリカ人と反対するアメリカ人の唯一の相違は、結婚を従来の伝統に従って異性間に限定するか、それとも時代の変化に合わせて同性間にまで拡大するかであって、
結婚や家族を大切だと考えている点では両者とも変わりはないということです。
実際、アメリカの同性愛者たちは、同性婚を望むだけでなく、体外受精や養子縁組によって子供を持つことまで望んでいます。
理想の家族には子供が不可欠だと考えるからでしょうが、正直いって、なぜ、そこまで異性愛者の真似をしたがるのか、私には理解できません。
日本では、大半のホモやレズは同性婚に対して無関心で、どうしても結婚して家庭を持ちたいと思ったら、同性ではなく異性と結婚して子供を作ることを考えるでしょう。
それが日本人の常識だからです。
ところが、アメリカの同性愛者はあくまでも同性婚にこだわり、同性カップルであっても、異性愛者と変わることなく、良き夫婦、良き父親、良き母親になれるんだと必死にアピールしているようにみえます。
彼らがこれだけ結婚や家族にこだわるのは、異性愛者のアメリカ人と同様、「家族の価値」というものを信じているからでしょう。
そういう意味では、同性婚を望む同性愛者は、結婚制度や家族制度を否定する一部の過激なフェミニストたちとは対極のところにいる保守的なアメリカ人だといえます。
同性愛、ひいては同性婚に反対するキリスト教右派は、聖書に同性間の性行為を禁じる記述があることをその根拠にしています。
キリスト教徒でありながら、キリストの教えに反して同性間で性行為を行うことを非難しているわけで、
だったら、アメリカの同性愛者はキリスト教徒であることをやめてしまえばいいのではないかと私なんかは思うのですが、同性愛者であることを理由にキリスト教からほかの宗教に改宗した人間の話を聞いたことはありません。
キリスト教に限らず、大半の宗教が同性愛を禁止していることもあると思いますが、アメリカ人にとって自分がキリスト教徒であることはそのアイデンティティーの基礎になっていて、キリスト教徒であることを辞めることなど思いもよらないのでしょう。
むしろ同性愛者であっても、良きキリスト教徒でありたいと願う人間が大半で、その結果、彼らは自分の性的指向とそれを禁じるキリストの教えの狭間に立って悩むことになるわけです。
そんな彼らにとって、自分たちの抱える矛盾を解決する唯一の方法は、同性愛者であることを神に認めてもらうことしかありません。
私はアメリカでゲイリブの運動が起こったことと、アメリカがキリスト教原理主義の国であることは切っても切れない関係にあると思いますが、
アメリカのゲイたちが最終的に目指しているのは、同性愛を禁じるキリスト教の教義を修正して同性愛を認めるようにする一種の宗教改革ではないかと最近、考えるようになりました。
アメリカにおける同性愛や同性婚を認めるかどうかの論争の本質は、キリスト教の教義の解釈をめぐる神学論争で、
あくまでも同性愛は神の教えに反すると主張するキリスト教右派と同性愛もまた神によって認められるべきだとする同性愛者を中心とした改革派のキリスト教徒が争っているのだと考えれば、
アメリカのゲイリブの運動や同性婚の論争を、非キリスト教徒であるわれわれ日本人がいまいち理解できないのも当然という気がします。
キリスト教徒ではない日本のゲイリブは、同性婚ができないと遺産を相続できないとか、配偶者控除を受けられないとか、同性婚というものをもっぱら損得の観点からしか語りませんが、
アメリカ人の同性愛者にとっては、同性婚というのは、単なる損得の問題を超えた切実な問題、神によって自分の存在が認められるかどうかという信仰上の問題と深く結びついていて、だからこそあれだけ真剣になるのではないでしょうか。
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by jack4africa
| 2008-12-18 19:20